ルイ・ラトゥール・コルトン・シャルルマーニュ・グラン・クリュ・2019
日曜日お房は おとっつァんに頼まれたお使いをする為に若旦那の家へ向かっていた。
一緒にコンダラを引きに行くと約束していた伴がコロナに罹患してしまい、予定がなくなってしまったのだ。
若旦那に借りてたモノを返してえんだが、今日は腰が悪くていけねえ。お房、おめえ使いに行ってくれ・・・・・ただの二日酔いでしょうに、全く調子のいい。おっかさんがヴァイオリン出してくると駆け出すように逃げるくせに都合のいい時だけ腰が腰がって。もうおかゆ作ってやんないからね、今日暇だからいいけどさブツブツ。
「若旦那いる?借りてたデキャンタ返しに来ました。うちの おとっつァんにも困ったもんよね。ワイン評論家目指してる人がどうしてデキャンタ位持ってないんだろ」
応(いら)えがないのでお房は首を傾げた。
「若旦那?」
若旦那は部屋の隅でひざを抱えていた
「ヒック・・・ヒック・・・」
「若旦那泣いてるの?」
「な・・・泣いてなんかいないざんす」
「そんな分かりやすい格好で分かりやすい声(こい)出してたら誰だって分かるわよ」
「な・・・泣いてなんか・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長い沈黙が訪れた。
話を聞いて欲しそうな若旦那の雰囲気は感じていたが、お房は迷っていた。若旦那に何があったのか薄々分かってはいたのだが正直めんどくさいな、という思いもあった。訪問した行きがかり上、迷った挙句、仕方なく訳を聞いた。
「どうしたの?若旦那」
ようやく泣き止んだ若旦那がボソボソ話し出す。
「馴染みに振られらたざんす」
「若旦那の馴染みって?」
「近頃評判みたいざんすな。吉原(なか)の朝霧太夫ざんす。」
「ええ?大夫?呼ぶのだけでも大変なんじゃないの?」
「知り合いの座敷で顔を合わせて、次に自分の座敷に呼ぼうとしても3ヶ月も振られっぱなし」
「まあ」
「惣籬(そうまがき)の格の見世で太夫を張っているんざますから、そりゃ敷居が高い。年季(ねん)明け寸前ざんしたから、若くはないんざんすけどね」
「若くないって、そりゃ若旦那だっておんなじでしょう」
「そう、似た者同士ざんす。30にもなって若旦那の拙と太夫まで登り詰めたのに、年季(ねん)明け寸前までどこのお大尽にも落籍(ひか)されなかった大夫」
「似た者同士が惚れ合っちゃって、年季(ねん)明けに夫婦になるはずが・・・」
「振られたざんす。二世(にせ)を誓うって起請もくれたのに。拙の女房になってもらおうと絶対親を説得するつもりざんした。」
「年季(ねん)が明けたらお前のそばへきっと行きます断りに・・・有名な都々逸にもあるじゃない。よくあることよ」
「ふえーん」
「なんだと言って断ってきたの?他所にも起請2通出してたとか」
「そんな落語みたいな話じゃないざんす。やりたいことが見つかったから、若旦那と一緒にはなれないって」
「ふーん」
「ワインを本格的に勉強したいって」
「ふーん」
「ソムリエを目指すって」
「ふぇ?」
「花魁は飲食店勤務だからソムリエ資格受験の条件はクリアしてるからとか言うんざんす」(注1)
「・・・なんか拡大解釈っぽいわねえ」
「でもソムリエ協会、その願書受け付けちゃったみたいざんすよ」
「するってえとなあに?若旦那の恋敵はよその本筋の間夫(まぶ)って話しじゃなく?」
「拙の恋敵はワインざんす」
こんなことなら朝霧にワインなんか教えなければよかった、とかそもそも勘当されたのだって朝霧以外とは誰とも結婚つもりはないって親に逆らったからなのに、とか愚痴愚痴繰り言を繰り返す若旦那にお房はイライラしてきた。
なんなのこの男?これじゃ朝霧が可哀想。
「若旦那ちょっとこっち向いてくれる」
若旦那が顔を上げた刹那、暴力娘、お房が本性を現す。
平手打ちを繰り出すお房。
しかし若旦那は巧みにスウェイバックしてそれをかわす。
「やるわね若旦那」
弱々しく若旦那は笑った。
「へへっ」
泣き疲れた顔のまま若旦那は続けた。
「お房ちゃんの平手打ち、一寸(ちょいと)キレが鈍くなったんじゃござんせんか?」
「キイイー悔しい、何よさっきまで泣いてたくせに。私の腕は鈍っちゃいないわよ。白状なさい、どっかで鍛えてるでしょう?」
少し調子が戻ってきた若旦那は自慢話を始める。
「実は段平のおっちゃんに・・・最近ボクシングをね」
「段平のおっちゃん?」
「さいざんす」
「いつも夜うなされて、すまねえジョーあん時もっと強引に引き止めときゃ。とか大声で寝言言ううちのお向かいのおっちゃん?」
「それは懺悔段平さんざんしょ。そのおっちゃんじゃないざんす」
「その隣のおっちゃん?ちょっとした親切にも丁寧に感謝してくれるドイツワインマニア。うちの斜め向かい」
「それはダンケ段平さんざんしょ。そのおっちゃんじゃないざんす」
「その隣のおっちゃんでしょう!暇さえあればバンドネオンでなんか弾いてる。アルゼンチン産マルベックばっかり飲んでる」
「それはタンゴ段平さんざんしょ。そのおっちゃんでもないざんす」
「じゃその隣だ。イタリアのピエモンテ州のネッビオーロの安いワイン以外絶対に飲まない。ワインマニアによく居るタイプの歪んだこだわりのある」
「そうっ!ランゲ段平のおっちゃんが拙のボクシングの師匠ざます」
「あの人ボクシングの心得なんてあったのねえ?」
「ランゲのおっちゃんだけじゃないざんす。4人ともボクシングジムでトレーナーやってたって話しざんすよ」
「ちょっとまって!そしたらうちのお向かいから始まって4軒の懺悔段平、ダンケ段平、タンゴ段平、ランゲ段平のおっちゃんたちみんなのボクシングトレーナーだったって言うの?」
「さいざんすね」
「どうかしてるわよ!大体この長屋ってなんなのよ!どうして段平って名のおっちゃんが4人も居るのよ?しかもお隣どうし!」
「拙に怒っても困るざんす。大家(おじさん)に伝えておきます」
大家と聞いてお房はトーンダウンした。
「大家さんに言うのは・・・いいわよ・・・おっかさんのヴァイオリンで長屋に迷惑かけてる」
「いいんざんすね?」
「いいわ、それより教えて。なんで4人のうちランゲのおっちゃんなの?」
「さあ、これまたこっちも似たもの同士なんで気が合うんざんすかね?」
「????」
「片やブルゴーニュのピノ・ノワールしか飲まない、しかも高いの。片やピエモンテのネッビオーロしか飲まない、しかも安いの。歪んだこだわりのあるってマニアってところはそっくりざんす」
説得力のある説明にお房は深く頷いた。
「自分のこと自覚できるようになったのね、大した進歩だわ」
「それも朝霧に気づかせてもらったざんす。同じピノを選ぶんでもカリフォルニア・ニュージーランドって経験知をどんどん積み重ねていって、あっと言うまに知識は追い抜かれてしまったざんす」
「目覚めた女は強いわよ。」
「間夫(まぶ)を振るのなんか平気なんざんしょうねえ・・・」
若旦那は再びうなだれた。
「もうっ!女に本気になって振られてしょげかえる。半可通とチャラさが身上の若旦那がそんなんでどうすんのよ。」
「人を本気で好きになったことのないお房ちゃんにはわからない世界ざんす」
「あー、もうっ!わかった。今、気付け薬持ってきたげる」
お房は走り出した。チャンスだと思った。この機会を逃すとあのワインを渡せなくなる。
若旦那はため息をついていた。気付け薬?何をするつもりなんざんしょ?少し位のことじゃ拙の悲しみは晴れないざんすよ。
お房が戻ってきた。
「はい、気付け薬」
「ルイ・ラトゥールのコルトンシャルルマーニュ!」
「失恋した時はこんくらいのを飲むのよ。1人で飲むのよ。そんで泣きたいんだったら、とことん泣くのよ」
「いいんざんすか?太っ腹にしてもやり過ぎじゃ」
「いいわ、いつも世話になってる若旦那だもの。おとっつァんにはあたしから説明しとく。さいなら」
「お房ちゃん、ご相伴いただけないんざんすか?」
「振られて泣いてる男の悔し酒なんて辛気臭いもんに付き合っちゃ要らんないわよ。じゃあね」
あれ、本当に帰っちゃった。・・・でもまあせっかくだからいただきましょうか。とても照りのあるイエロー。黄金色って言ってもよござんすね。香りは青リンゴとレモンを感じるざんす。味わいはこれまた複雑な要素がすごいざんす。しっかりした酸味だけど香りと連動していないと言うか、なんか梅のニュアンスを感じるざんす。甘さは控えめな代わりにバター感というかナッツ感というか、・・・マロラクティック醗酵由来ざんすかね?余韻にミネラル感と柔らかい苦味。このふくよかさ、ボリューム感はなんざんしょう?こんなに厚みのある白ワインは初めてざんす。
そういえばワインを日常にするようになってしばらくしたら朝霧が妙に白ワインにこだわるようになりましたっけ。一緒に飲んだこともあったざんすね。
ブルゴーニュの白ワインを飲むとそんなことも思い出すんでしょうなあ。でも変なもんざんすね、今日のことを真っ先に思い出すような気がするざんす。
若旦那は最後に涙をもう一粒こぼした。
2杯目を自分でサーブしてつぶやいた。
「今日は飲むざんす」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝霧は丘の南西部に立っていた。アロース・コルトンのシャルルマーニュ十字架からコルトンの丘を眺めていた。
来たかったのここ。ここであの夢のようなワインが出来るのね。ここの景色も夢みたい。
若旦那お別れのワイン飲んでくれたかしら。お房ちゃんには悪いこと頼んじゃったわね。ちゃんと私のこと黙っててくれたかしら。いきなり訪ねて行ってお房ちゃんをびっくりさせちゃった・・・でもあの子も詳しいのね。ラトゥール のコルトン・シャルルマーニュがどんなワインか分かってたみたい。
馬鹿な若旦那(ひと)。禿の時から廓育ちの私なんか普通の女ができることなんかまるでダメなのに・・・身分違いだって大変なもん。本当に大店の御新造なんて務まると思ってたのかしら。親が持ってきた縁談に見向きもしないで私に入れ上げて挙句に勘当されちゃって。
2人揃って本気になっちゃったのが良くなかったわね。でも所詮、内証勘当でしょう?お上に届ける本勘当まで行ってないんだもの、私と別れたのが知れれば勘当といてもらえるわよきっと。
やだ私ったら惚れた男のために身を引く女になってるじゃない。ちがうちがう、感傷に浸りに来たんじゃない。
ブルゴーニュまで来たのは自分の覚悟を確かめたかったの。私は夢をつかまえたわ。
ありがとう若旦那あなたのおかげ。
さようなら。
愛してるわ若旦那。
【2024年3月23日公開 27,000円台 消費税10%】
(注1)いったい時代設定いつなんだよ?とかツッこまないでくださいね。そもそも若旦那とか大家とか幇間とか絶滅危惧種を登場人物にしてますから時に荒唐無稽な話になります。時代的に違和感のある事物をわざと並列させて笑いを誘う現代の古典落語家がよくやる手ざんす。
名作です。
中島 要先生の時代小説は全部名作ですが。この連作は余韻を噛みしめたくなる素晴らしい小説集です。今回のヒロイン朝霧という名はこの中の「色男」から頂かせてもらってます。
ついでだ