ムーチョ・マス・ブランコ・フェリックス・ソリス・アヴァンティス・バルデペーニャス
土曜の午後フランソワーズは引越しの挨拶をしに袋小路家を訪ねた。
「コンニチハ、ごめんなすって、コチラ袋小路さんのお宅ですか?」
亜弓(注1)は最近日課にしているパルティータ第2番ニ短調の終曲のセルフレッスンの途中だったのだが、あごに挟んだまま弓を離し声の方を見た。え!まあ!
1864年製のヴィヨームをちゃぶ台の上にそっと置き、改めて訪問者を見て、その美貌に驚いてしまった。
綺麗なお嬢さんだこと。わたくしの若い頃や娘のお房より美人かも知れない。こんな方、初めて拝見いたしますわ。
「はい、袋小路です」
「高名なワインブロガー、袋小路おとっつァんさんのお宅ですよね」
「高名かどうかはわかりませんけれど。袋小路おとっつァんはわたくしの主人です。ただあいにく今、留守にしてまして。多分今日は帰らないとか。どんなご用でしょう?」
亜弓は訝しんだ。あんな過疎ブログを読んでるなんて、まして袋小路が高名?このお嬢さん大丈夫かしら。(注2)
「初めまして。ワタクシ、フランソワーズいいます。今度引っ越してきました。そのご挨拶に寄らせてもらいました」
「これはご丁寧に恐れ入ります、で、どちらに越されてきたんですか?」
「伴さんのお隣りです。若旦那のお向かいにナリマス」
「え?でもあそこは幇間(たいこもち)の左岸豊作さんのお宅じゃなかったかしら」
「はい、ソコデス」
「ええとつまり」
「はい、今度豊作さんとメオトの契りを結ぶことになりまして」
「まあ・・それはそれは」
「豊作さん、なかなか籍を入れることにウンッて言ってくださらなくって」
「はあ・・・」
「日本に連れて帰ってもお前を幸せにする自信がない、なんておっしゃいましてね」
「はあ・・・」
「肝っ玉のちいせいおとこだな、と思いまして」
「はあ・・・」
「じゃまくせえ、てんで押しかけて来たんでゴザンス」
「はあ・・・」
「なんですか日本には押しかけ女房という婚姻制度があるそうで」
「はあ?」
「強引に引っ越してきて、女が幕府(ごこうぎ)に婚姻届を出したらダンナの署名捺印がなくても、婚姻が成立するんだとか」
「・・・何か随分誤解があるようだけど。押しかけ女房という言葉は確かにあります」
「なんて素晴らしい国なんでしょう!日本って。理屈もへったくれもなく、女の好き嫌いで全て決められるなんて!フェミニズムの先進国ですね!」
「・・・やっぱり誤解してるようだけど・・・まだこちらにいらして間も無いようだし、日本のことはおいおい」
「ま、今回は豊作もブツブツ言いながら判子押してくれたんでそこまで強行手段に出ずに済みましたがね。まったく世話のかかる野郎でさ」
亜弓は軽く眩暈を感じた。世話のかかる野郎・・・
「フ、フランソワーズさん?お名前からしてフランスの方ですか?」
「はい」
「あのう・・・豊作さんとはどうやってお知り合いになったんですか?ごめんなさいね、興味本意で」
「去年の夏、豊作がボルドーに遊(あす)びィきた時に引っ掛けられました」
亜弓の眼が光った。
「ボルドー?」
フランソワーズの眼も光った
「メドックの生まれよ」
亜弓は慌てて聞いてみた。
「ご実家は何かワインに関わるお仕事ですか?」
「はい、それほど大きくはありませんが、名前を言えばきっとご存知のシャトーの長女です。」
「すみません、主人や娘と違ってわたくしワインにそれほど詳しくなくて・・・お聞きしても分からないかも知れませんわ。娘が居ればよかったんですが、娘も今日帰らないとか」
「いいってことよ。大体わっしはフランスのワイン嫌いなんでさ。今や酒なんだか何なんだか訳わかんない代物になりやがって。どいつもこいつも貴金属とかバッグみたいにブランド品になっちまいやがってさ」
亜弓はクラクラしてきた。いいってことよ・・・わっし・・・
「フランソワーズさん日本語お上手ですね」
「とんでもねえ、わっしの・・・いえワタクシの日本語はどこか変だって豊作にも言われてます」
「あのう・・・」
「しかし、ヒトの日本語変だって、言えた義理ですかい。なんなんですかい左岸豊作って名前は?」
「あのう・・・」
「左岸が左岸に遊(あす)びィ来て、左岸生まれの娘を引っ掛けたなんて、バカバカしいったらありゃしねえ。わっしァ左岸豊作って名前を聞いた時、トーンときたね。ぜってェこいつの女房になろうって決めたんです。」
「あのうフランソワーズさん・・・」
「だから最初のデートの時に絶対ヤられちゃおう、って決めてて色々誘惑したのにキスもしやがらねえ。意気地のねえ野郎だなって呆れ返っちまいましたよ」
「フランソワーズさん、お綺麗だから・・・豊作さん臆したのかしらね」
「ちげえねえ、野郎ビビリやがったんだね」
崩れそうになりながらなんとか踏み堪えて亜弓はやっと尋ねた。
「あのうフランソワーズさん、日本語はどこで勉強なすったんですか?」
「ソルボンヌの東洋文化学部日本文学科です」
まあ、わたくしの後輩でしたのね。でもソルボンヌにそんな学部学科あったかしら(注3)
「ちなみに研究室は近現代文学捕物帖研究、卒論は(半七と平次のラングとパロール・綺堂と胡堂はどっちが工藤か?)デス。」
平仄があったわ!
亜弓は心から納得した。お勉強したテクストが良くなかったのね。
「てえへんだ!」
不意にフランソワーズが叫んだ。
「引越しのご挨拶に用意してきたもんを、置いてきちまった、おかみさん待ってておくんなさいよ。今ひとっ走りして・・」
「そんな・・・お気をお遣いいただなくてもよろしいのに」
「なあに、てえした物(もん)じゃござんせんて。それよりおかみさん、わっしァお名前お聞きそびれてました」
「亜弓といいます」
走り出す前にフランソワーズは振り返り、ウィンクして言った。
「素敵でござんした、亜弓のシャコンヌ。ヴィヨームなんてぇ名器(すぐれもん)下手な奏者(やりて)が弾くと返(かい)って変な音になっちまうもんだが、どうしてどうして、てェしたもんだ!」
亜弓は心底驚いた。
わたくしのバッハの無伴奏が良いっておっしゃってくださるかた、この長屋にだっていらっしゃるけど(注4)
少し音を聴いただけで、このヴァイオリンがヴィヨームだとわかるなんて。
フランソワーズ・・・・・
おそろしい人。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
フランソワーズはワインバックに入れて挨拶を持参した。
「おまっとさんでやんした。引越しのご挨拶に一寸(ちょいと)粋な物(もん)を考(かんげえ)てみました」
「ワインですか?」
「左岸豊作の女房が袋小路家に持参するもんがワイン以外じゃ格好つかねえじゃねえですか」
「ご丁寧に恐れ入ります」
「グラス2本(ふたっ)ばかり貸しておくんなさい」
「え?」
「飲んじまいましょうよ、亜弓も嫌いじゃねんでしょう?」
亜弓はフランソワーズの勢いに思わず頷いてしまった。
主人や娘じゃあるまいしお昼間から良いのかしら。でもたまにはいいかしらね。
「亜弓、面目ねえ、向こう向いててもらえますか」
「え?・・・あ、はい」
フランソワーズは抜栓して、ワインをサーブした。
「こっち向いてくれてようがす。試してみておくんなさい。」
「ブラインドテイスティングですか?わたくしこういうのは・・・」
「まあ、そう言わずに、飲(やっ)てみつくんな」
「どうです?」
亜弓は思った。
悪くございませんわこのワイン。さすがメドックのシャトーのお嬢さんがセレクトするだけありますわね。色は明るいレモンイエロー。粘性は中程度。香りはトロピカルフルーツ系?グレープフルーツが近いかしら。ああスワリングすると香りが甘く変化する。味わいは果実に例えるのが難しい癖のない甘み。洋梨?というよりそうね幸水あたりの和梨に近いかしら。甘味とフレッシュな酸味が拮抗してますわ。絶妙なバランスね。アフターに軽い苦みを感じる。長い余韻。長い余韻に軽い苦みがそっと寄り添っていますわ。だからかしらとても軽快。しっかりしたアルコール感なのにこの軽快さ。ああ音楽が聴こえる!
亜弓の眼が光った。
「ブラームスが聴こえますわ!」
フランソワーズの眼も光った。
「亜弓さんすごい!」
フランソワーズはちゃぶ台にあったヴィヨームを取った。
「お借りしますわ、よろしくて?」
返事を待たずにフランソワーズが弾き始めた
「いかが?」
亜弓の眼がまた光った。
「そうよ!コンチェルトの第3楽章。何故わかるの?」
フランソワーズの眼もまた光った。ヴィヨームをちゃぶ台に静かに置きゆっくり語り始めた。
「ブラインドテイスティングを怖がるのはおよしなさいひろみ。それよりワインと向き合おうとしないことこそを怖れなさい。今、同じワインを飲んで、ブラームスのバイオリンコンチェルト第3楽章が2人の心に響いたように、ワインの本質を見抜くのに知識なんてなくてもよろしいのよ。よろしくて?ひろみ」
わたくし亜弓なんだけど。と思いながら
この難曲を平気で弾きこなしてしまうヴァイオリンの腕前に驚き、口調が急に変わったことに面くらい、さっき教えたばかりなのに名前を間違われたことにも驚愕する亜弓であった。
フランソワーズ・・・・・
おそろしい人。
「では種明かしをしましょう。エチケットをお見せするわ。よろしくて?ひろみ」
「亜弓です」
「白のムーチョ・マス。スペインのワインなんですね」
「スペイン語で言えばブランコ、ムーチョ・マスね。でもフランス語で言い換えてみて下さる?ひろみ」
「亜弓ですけれど・・・白のムーチョ・マス・・・ブランムーチョマス・・・ブランマス」
2人は同時に叫んだ
「ブラームス!」
亜弓は少々憮然とした表情で
「だからテイスティングでブラームスが聴こえたっておっしゃりたいの?それいくらなんでもあまりに」
「よろしくてよ。そもそもワタクシの名前が出た1行目でどうでもブラームスを絡ませて落とすだろうことは賢明な読者諸兄の皆様お気付きでしょう?」
亜弓は吹き出した。
「それもそうねウフフフ」
日が暮れようとしていた。
悪いことに2人はワインを飲むと、ヴァイオリンを弾きたくなって仕方ない性分だった。
その後2人の弾き比べ、褒め合いが延々と続いたのだった。
長屋の住人の誰1人もまともに睡眠を取れない夜の始まりだった。
【2023年2月11日公開 800円台 消費税10%】
(注1)はい、袋小路家のおっかさんの名前を始めて明かします。亜弓といいます。「袋小路亜弓」何かの漫画の登場人物をもじってシャッフルしたみたいだって?偶然ですよ偶然。
(注2)真昼間から貧乏長屋で超高額ヴァイオリンでバッハ弾いてるあんたこそ大丈夫なのかよ。
(注3)もちろんデタラメです。んなもんありません。
(注4)いねえよ
おかげさまで、やっと伏線が回収できました。つまりはこういうことでした。ところでお尋ねしますが、顧問のブログの読者やってるくらいだから、貴女も貴男もきっと変わり者(もん)でしょ?しかもちょっと斜に構えてらっしゃるでしょ?ということはきっとサガン読んでないですよね?
チッチッチ、駄目々々。食わず嫌い駄目ですよ。サガンいいですよ、本当にいいですよ。
もいっちょサガン
(色々な意味で)おそろしい漫画
しかしつくづく思ったんだが、竜崎麗香の「よろしくて」ってあらゆる論理をなぎ倒してゆく、すさまじい破壊力を持ってますな。便利だわこのパワーワード。ということでオマージュも込めて広告もういっちょ。
ついでだ。